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トップページ >> 柳井市のご案内 >> 柳井市のあゆみ(古代・中世)
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市域の南に突出する室津半島には黒島浜などの縄文遺跡があり,弥生時代の遺跡は伊保庄・余田をはじめ市内各地に分布する。5世紀に入ると柳井市向山に周防国造の墳墓と目されている茶臼山古墳(前方後円墳で国指定史跡)が現われる。
養老5年(721年)熊毛郡を割いて玖珂郡を置いたが、柳井は伊保庄を除いて玖珂郡に属していた。新庄には奈良時代から大寺院が営まれていたと思われる濡田廃寺跡があって古式瓦が出土する。 古柳井水道の周辺市域には、すでに早くから政治的社会が成立していた。平安時代に入ると、各地とも私有の荘園が発達してこれを庄と称えている。楊井庄は後白河法皇が営まれた蓮華王院(三十三間堂)領の荘園で、のちに開発された新庄に対して楊井本庄とも称した。立荘の時期は明らかでないが、古文書における楊井庄の初見は貞永元年(1232年)「東大寺文書」である。 新庄は楊井本庄に隣接する新開の荘園で立荘の起源は不明だが、14〜15世紀頃の古文書に 「防州楊井新庄・・・・・・・」 とある。 伊保庄は堀河天皇の寛治年間(1090年代)京都上賀茂神社領の荘園であった。ここも立荘年代は不明である。 源平動乱の時代を迎えて、源義経率いる源氏が平家を文治元年(1185年)に長門国壇の浦において滅亡させた。その途次、周防国合戦があり、その主戦場が阿月の池の浦付近であったという。 さきに、平氏が東大寺を炎上させたので、その造営のために周防国が充てられ重源上人が国司となるが、文治2年(1186年)国衙領与田保は東大寺の直轄領となっている。 やがて大内氏の時代を迎えるが、日積は早くから大内氏の領地となりその重臣杉氏が代官として居住していた。応仁の乱(1467年)に際して大内政弘は大軍を率いて楊井より上洛。この頃楊井は大内氏の対明貿易基地として利用され、さらに明応9年(1500年)大内義興は将軍家足利義稙を山口に迎えるが、その晦日義稙は楊井津に宿泊越年していることから、当時の楊井津の繁栄がしのばれる。 |
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