ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

天津橋移設報告

更新日:2017年5月10日更新 印刷ページ表示

1 柳井浜塩田の開作と天津橋の設置

 柳井浜塩田は、文化7年(1810年)に古開作の地先において開作された、入浜式製塩を行う塩田である。総面積は、24町3反8畝18歩(約24万平方m)で、東浜を1番から7番浜まで、西浜を8番から13番浜まで築き立てた。そして、東浜と西浜の間に一本の堀川(中川)を通して、製塩に用いる海水を取り入れるとともに、資材搬入や製品搬出のために底が浅い上荷船を往復させた。なお、中川の北詰には塩田の守護神として蛭子神社を創建し、塩釜明神・厳嶋明神・恵比寿神を祀っている。

 塩田を築き立て、その中央を貫いて中川を通した際に、東西両浜を結ぶ目的で中川の中間地点に橋が架けられた。橋の名称は「天津橋」で、代田八幡宮の神主が幾つかの候補名を神前に供え、祝詞をあげてお祓いをし、くじ引きによって決したものである。

 当初は木製の橋であったが、20年後の文政13年(1830年)に、石橋として架け替えられた。上荷船の通行のために、橋脚を設置しない、弓を張った形をなす張出し式の石橋である。脚がないことから、俗に「幽霊橋」と呼ばれてきた。さらに35年後の慶応元年(1865年)に改修がされており、現存する天津橋の標柱石に「慶応元年乙丑六月再造之」と刻まれている。安政元年(1854年)、文久元年(1861年)と文久3年(1863年)に地震が起きているが、それによって橋桁がずれて危険な状況になったための再建と考えられる。

 柳井のみならず、江戸時代には瀬戸内海を中心にして製塩業が盛んになり、製塩による収益は各藩の財政に貢献した。しかしながら、やがて生産過剰になって採算が悪化していく。柳井浜は、昭和34年の塩業整備臨時措置法の成立を機に製塩業を廃止することとなった。そして昭和39年に日立製作所が柳井へ進出するに伴って、塩田及び中川は埋め立てられた。天津橋は、その後に進出した(株)ルネサス柳井セミコンダクタの工場敷地内に存続し続けた。なお、平成14年には芸予地震によって天津橋の橋桁が落ち、石組が緩んだために、解体修理を行っている。

 文化7年の開作以来、柳井浜における製塩業は、永きにわたって柳井の主要産業であった。大規模な生産設備であったにもかかわらず、現存する唯一の塩生産関連施設は天津橋のみとなっている。柳井の歴史を雄弁に物語る遺構として、極めて貴重な産業遺産である。

2 張出し式の石橋

 重量のある石橋が、やや幅の広い川を跨いで架かる場合、橋脚によって支えるのが一般的である。しかし、力学的な工夫をすることによって、橋脚がなくとも落ちない構造にすることができる。その構造には2通りのパターンがある。

 一つはアーチ式の石橋(太鼓橋)である。扇形に整形した石をアーチ形に組んで、石橋の重力を隣接する石に伝えて横方向に変え、重力を両岸壁に押しつけることによって落ちない橋の構造である。神社の太鼓橋や九州でよく見られる眼鏡橋である。

 二つ目のパターンは、張出し式の石橋(石刎橋)である。川の両岸から張出し石をやや上向きに迫り出させ、その先端部に長い橋桁石を乗せて、弓形に架ける構造である。さらに上荷船の往来をスムースにするために、橋詰の両岸をU字形に突き出す構造とし、川幅を広くしている。

 張出し式石橋は、硬い石を必要とし、技術的に難しく、少数である。その中でも、完成度を高くした構造の弓形をなす石橋は、山口県瀬戸内の入浜式塩田に分布が限定される。良質の花崗岩を用いて、繊細な加工をし、力学にかなった構造に組み立てており、高度な技術に驚かされる。天津橋と同様の弓形石橋は、かつて14橋が架けられていたが現在は防府市に3橋、山口市に1橋が残存する。

 そのうち防府市の大浜と北浜の間の入川に架けられ現地に残存する枡築欄干橋は、明和年間(1764~1772年)の築造である。文政13年(1830年)に設置された柳井浜塩田の天津石橋は、枡築欄干橋の構造に酷似しており、防府(三田尻)からの技術伝播か、その石工によって造られたと推測される。なお、枡築欄干橋と天津橋の大きな相違点は、三点ある。(1)枡築欄干橋では木製の欄干を設置したのに対し、天津橋は背の低い欄干石を並べている。(2)枡築欄干橋では張出し桁石が二重(両側のみ三重)である。(3)天津橋には支柱石を設けて張出しし石の沈降を防いでいるが、枡築欄干橋にはない。

 天津橋は枡築欄干橋の構造を模しながらも、強度を増して、丁寧に築造しているといえる。

3 天津橋への住民の愛着

 岩国藩の家老であり桂園派の歌人でもあった香川景晃は、天津橋が架けられた文化7年(1810年)に、「柳井津に塩浜を開き、その内川に橋を架けて天津橋と名つけ、此の地行末を禱り侍りて」と前置きし「千代かけて栄えゆく国の益人をすくい渡さん天津浮橋」との和歌を詠んでいる。そして、菅原公友は「弓はりの月ともかけて見るからにあまつ橋とや名つけ初めけん」と詠んでいる。

 また、塩田の情景については、上田の金剛寺に所蔵されている絵図「柳井八景」には、「塩竈夕烟」と題して絵に「みちのくはへたてとちかの塩かまをうつして煙たつるゆうなぎ」との和歌が付してある。明治時代になると、鉄道唱歌に「風に糸よる柳井津の港に響く産物は甘露醤油に柳井縞辛き浮世の塩の味」と唄われている。

 このように柳井浜塩田は、産業設備としてのみならず、文化にも溶け込んでおり、柳井の象徴的な情景として深く焼き付けられていた。柳井津から伊保庄へ通じる道は、塩田を貫く中川の土手を利用しており、往来する人々も多く、路傍の天津橋は、「幽霊橋」として住民に親しまれてきた。

4 天津橋の実測図作成の経緯

 旧塩田は埋め立てられて工場敷地等に姿を変えたが、天津橋は築造場所に残存してきた。このたび該当地で、道路の拡幅や側溝の設置が計画されたため、平成27年(2015年)8月に市の経済部企業誘致課と市教育委員会の生涯学習・スポーツ推進課、文化財室が、天津橋の扱いについて協議をした。そして、「天津橋を多くの市民の目に触れる場所に移設をして親しく接してもらうとともに、柳井の歴史を雄弁に物語る言遺構として歴史研究や学習活動に有効活用する」との方針をたてた。

 移設施工に際しては、天津橋の構造を変化させず、忠実に再現することを最優先して行った。

5 天津橋の規模

 天津橋石組の全長は15m、橋直下の川幅は6m50cm、橋幅は1m80cm

6 市内に所在した諸塩田

 柳井浜のほかに宮本浜・高須浜・小田浜・伊保庄浜・宇積浜があった。

7 製塩の歴史

 藻塩製法「これやこの名に負う鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人娘子ども」→ 揚浜式製塩法→入浜式製塩法→砂層貫流式製塩法→流下枝条架式製塩法

移設後の天津橋

天津橋図面

[移設場所] ビジコム柳井スタジアム(柳井市民球場)三塁側スタンド外付近 グーグル地図<外部リンク>