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周防国濡田廃寺出土品 一揃

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年3月23日更新
周防国濡田廃寺出土品 一揃

昭和13年9月5日指定

山口市野田10
弘津金石館(弘津典正)
周防国濡田廃寺出土品の写真

明治34~5年ごろ、藤本惣助が新庄村字大倉の耕地整理中に発見し、鎮守堂を建てて安置していたのを、余田村の活田弥一が見つけ、後に山口市の弘津金石館に譲渡された。出土品はつぎのとおり。

  和銅開珎…12個(内四個欠損)
  多角形有孔無文銅銭…100余個
  多角形無孔文銅銭…10余個
  四角形無文銅銭…200余個
  円形有孔土銭…17個(内五個欠損)
  細長形金具…20余個
  長方形金具…10余個
  銅椀破片…6枚
  金具片…数枚
  鉄器破片…若干
  鉄鏃片…若干
  円形鉄器…一個

 発掘当事はこれらが八個の壷に分けて入れてあったが、弘津金石館に現在するものは四個だけである。その一個は、高さ10.5センチメートル、口径9.0センチメートル、他の一個はそれよりやや小型で、他の二個は胴部から口縁部を欠損している。

 この地は、奈良時代に栄えた濡田廃寺の旧址と伝えられる処の近くで、出土品もその廃寺に関係あるものとされている。
 皇朝12銭の和銅開珎といっしょに、多くの土銭・無文銅銭が出土し、また、残余の金属片も官銭に対して、補助貨幣的役割をもっていた私銭か、あるいは偽銭ではないかと推定されるところから、古代貨幣制度の貴重な資料として珍重されている。

 柳井市新庄字安行小字濡田(大蔵)には、明治30年ごろまで塔心礎があったが、山陽本線敷設のとき、鉄橋の石垣石に使用するために破摧したとのことである。
 古老の話によると、この塔心礎の石は直径2メートルくらいあって、二重孔式で、この孔内には舎利が納められていたという。

 この付近からは、廃寺のものと思われる古式布目瓦が多く出土している。出土の瓦は、奈良朝後期から平安・室町期におよぶもので、中には火災によって変色したと思われるものもある。
 おそらく、寺は室町期に火災にかかり、廃絶したものと考えられるが、確証はない。