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小田家の生活用具・商家資料・町家

更新日:2012年3月23日更新 印刷ページ表示

小田家本蔵付近

 小田家本蔵付近

 民具・桶類の一部

指定年月日

昭和54年3月31日指定

所有者

柳井市柳井津439

小田善一郎

 小田家は、商都柳井津町で大年寄格を代々勤めた代表的な商人であった。
 小田家は、その略系によると、新庄村庄屋小田家の分家である。
 初代善四郎(享保19年・1734卒)が元禄元年(1688)新庄から柳井津金屋へ分家独立、以来、反物、打綿、菅笠などの商売を営み、日向、肥後国にまでも乗り出した。
 二代目善四郎(安永2年・1773卒)代には、反物、打綿などをもって五島列島付近に出かけ、一方大阪との間では油の取引を始める。
 三代善四郎(天明元年・1781卒)代には、50石~125石積船を50艘ばかりに増し、商取引も最盛期を迎え、油板場も拡張した。
 四代目六左衛門(文化9年・1812卒)代には、家屋敷の購入、出店の普請、びんつけ商売も始め、油板場をさらに拡張し、油商としての正確を次第に強めていった。
 この間における小田家の商家的性格は富の蓄積とともに、次第に変化して、地主的性格、御用商人的性格を加味し、多角経営にのり出していった。一方、吉川領主に対しては度重なる多大の献金を行い、士分格に取り立てられ、最終的には大組格への昇進を果たしている。
 県指定有形民俗文化財の対象は、(1)小田家代々の使用してきた生活用具1553点、(2)文書1011点、(3)町家、主家ほか10棟のすべてで、一括指定に特色がある。
 この家は、商家の建造物としても主家は享保年間(1730頃)の建築で県下でも最も古い町家に属する貴重なものであるが、さらに重視されるのは、藩政時代から昭和初期にわたって、この町家の生活を物語る数多くの民具と、町家経営の内容をつぶさに物語る多数の古文書が残されていて、この柳井津町家の代表的な建造物と、建物が内蔵する資料を一括して今日に伝えている点で、これはまさに町人文化の綜合的保存といえよう。
 いま、その屋敷及び建造物を概観すると、本町通りに面して主家をとり、その裏に本蔵、勘定蔵、米蔵、中間部屋、道具小屋、離れ座敷が配置され、裏は銀天街に入口をもち、本通りと銀天街を結ぶ東側の路地にも出入り口がある。この小田家屋敷は南北に約119メートルの長さをもつ。
 小田家の屋号を古くから「むろや」といったが、今、復元が完了した妻入り二階建白壁造りの主屋をはじめ、その他の建物をそのまま利用して、これらの用具を展示し「商家博物館・むろやの園」として、一般に公開されている。


                                              むろやの園<外部リンク>