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日積地区史(忍道・松ヶ段地区)

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年6月3日更新

 《日積小学校発祥の地》

教徳寺

場所 ・・・ 山口県柳井市日積1202番地

 忍道の教徳寺(浄土真宗)は、弘治年間(戦国時代)に、願秀(俗名末永作次郎)の開祖といわれる古い寺です。
 明治5年の学制領布で、最初の村落日積小学校が、この寺を仮教場として設置されました。伊陸村長から後に、国会議員にもなった、硲俊聡(旧姓米村)が教師を勤めております。
 山門を入ると、手洗鉢に見事な盃状穴があり、目を見張らせます。
 また、本堂の前庭には、阿月の克己堂(現阿月小学校)にある大藤に肩を並べられる藤の大木が、毎年見事な花を咲かせています。
 品種は花房の長い「ノダフジ」と思われますが、樹齢や由来は定かでありません。しかし、少なくとも百年以上の樹齢と思われます。
 棚高3メートル、樹冠の広がり10メートル四方に咲きほこる花房の群れは壮観であります。
 花の時期は、毎年4月下旬から5月上旬が見ごろであります。

《鍛冶屋原の一里塚》 


 里程の目安となる一里塚は、豊臣英吉が朝鮮出兵の際に、山陽道を経て九州の肥前名護屋までの道筋に、一里ごとに塚を設けたのが有名であります。
 それが江戸時代になって、諸国の街道筋に普及し、並木も植えて、旅行者の便を図ったのであります。
 その後、慶長9年(1604年)に徳川氏は、江戸の日本橋を起点として全国に一里塚を築かせました。
 一里塚は、旅人にとって里程の目安となり、特に夏の暑い日ざしには、一里塚の木かげは旅のオアシスともなりました。
 日積地区は、大原の丸山と鍛冶屋原にあったようで、河本宅付近で塚は残っていません。  『玖珂郡志』に次のように記載されています。
  一、日積 大原、行バ右、小瀬ヨリ七里、上関ヨリ八里、岩国ヨリ五里。
  一、同  鍛冶屋原、行バ左、小瀬ヨリ八里、上関ヨリ七里、岩国ヨリ六里。

《鍛冶屋原遺跡》


 鍛冶屋原の地は、元は「市の原」と言った。ここにも、日積南方代官杉氏が居り、市が立っていたからです。
 元亀・天正年間(1570年代)に「鍛冶神右衛門」という鍛冶屋がおり、矢を造っていた伝承があります。
 八幡宮の棟札にも「鍛冶神右衛門」の名があり、八幡宮の改築にも深く関わり、しかも、大檀那である杉氏との関係が密接であったと考えられます。
 杉氏は大内氏の家臣で、日積はその知行所であったようです。
 河本・秋森さん宅付近から鉄滓(スラグ)がたくさん出ます。屋号にも、ヤハギ(矢作り)ヤカタ(矢運び)等が現存します。戦国の世に、大内氏の代官の支配下で、武器を製造し、併せて農具も造ったことでしょう。

《南方代官屋敷跡》 

南方代官屋敷跡

場所 ・・・ 山口県柳井市日積580番地2

 中世、大内氏の日積支配の頃は、南方と北方に代官がいたようで、その屋敷跡の記録が『玖珂郡志』にあります。また、『永田秘録』に、杉重茂日積南方代官職宛行状が残っておりますが、どの系統の杉氏か不明です。
 また、代官杉甲斐守屋敷跡が、鍛冶屋原の川角に残り、甲斐守は大内氏に従って、広島、五日市、石道城番として、安芸の武田氏と戦って討ち死にしました。(谷林遺稿集)
 しかし、甲斐守の実名や系譜は全く不明です。
 医家、高井家の屋敷跡が残っており、代官屋敷跡ともいわれていますが、別の説もあります。  この地の古い地名は「市ノ原」ともいわれ、市場があったとか、大鍛冶屋が居たこと等は、ここの代官との関係も考えられます。

《「松井」庄屋》


 関ヶ原の戦い(1600年)の後、日積村は吉川領となり、由宇組代官の支配下におかれた。その下に、日積村庄屋として松井氏が任命され、役宅は自宅の松ケ段にありました。 その手子(てご)役として9人の刀祢(とね)がおかれ、さらにその下に催合頭(もやいがしら)(今の自治会長)がありました。
 庄屋は世襲で、幕末まで続くが、刀祢9人の代々の名は不明です。
 『沿革誌』に、「第百六代後陽成天皇ノ慶長五年十一月、毛利家防長引退ニ際シ吉川広家(元春ノ三子)岩国六万石ヲ分家セラレテ、周防国ニ入国セラレル。当時、松井家ハ第三代又左衛門久治ノ時ナリシガ、藩主吉川家ノ命ニヨリ、当村庄屋役仰付ケラル。其ヨリ累代世襲シテ、辨治ニ至ル。十三代明治維新迄約三百七十年間ニ至レリ。」とあります。
 その後、松井辨治氏は明治8年戸長となり、明治22年4月、地方自治を重視した市町村制が発布され、初代村長に選ばれました。
 経歴等は、日積地区史を参照して下さい。

《琴石山》

琴石山

場所 ・・・ 山口県柳井市日積291番地(日積南公会堂)

 柳井の名峰琴石山に登ると四方に視界が開け、南には風光明媚な瀬戸内海が望まれ、眼下には柳井市街が一望でき古代の遺跡熊毛王の墓と言われる前方後円墳を見下ろすことができます。振り返ると山々に囲まれた日積の盆地や近郷の山里を見渡すことができます。 この山は標高545メートルの岩山で道は非常に険しく、昔には、事能要害として事能城があったと言われています。 『玖珂郡志』には、「山頂ニハ城跡アリテ、山路嶮岨也、城主ハ高井土佐守、或ハ堅田ト云、本丸・二丸ト云峰二有リ、本丸ハ東西二十間ニ九十間程也、上ノ平ミニ炭釜ノ如窪キ所アリ、所ノ者ハ掘ト云、二丸ハ上ノ平ミ狭シ」などの記載が見られます。
 また、弘治・永禄の年間の事能要害関係資料によると、高井彦次郎元任は事能城番の正覚寺守恩に隋遂する城番衆の一人で、毛利方として功労があったと伝えられていることなどから、大畠瀬戸・柳井水道を通る海上交通の見張りをしていたものと思われます。 頂上から一段下った所の岩肌に、直径20センチメートルほどの穴が等間隔に掘られています。昔、源平合戦のとき源氏が陣を構えた所の旗柱を立てた穴と言い伝えられています。 現在、山頂には一堂の社があります。日積松ヶ段の人々によって、毎年旧暦3月14日に祭礼が行われています。

 日積地区から琴石山に登るときは、日積南公会堂からの出発が便利です。

《大土居の宮石》 


 宮ケ原の斉郷家は、家名(屋号)を大土居といいます。道をはさんで畑の岸に大石があり、「宮石」と人々は呼んでいます。『玖珂郡志』には、宮と刻んだ図も出ています。
 また、毛利八ケ国時代(戦国時代)に、粟屋称兵衛なる者が郡代として、この大土居に居住したとあります。
 しかし、大石には文字は見えませんが、地名として「宮ケ原」で残っております。
 なお、近くに正蓮寺池がありますが、ここは余田に移転した、正蓮寺の跡といわれております。

《農耕の神諏訪神社》

諏訪神社

場所 ・・・ 山口県柳井市日積1853番地

 藩制時代の古記「神社帳」に、諏訪大明神と出ていますが、明治初年の「神社明細帳」によると、大帯姫八幡宮攝社、諏訪神社と出ています。信濃諏訪神社より勧請、創建不明とあります。祭神は鳥河沼姫神、健御名方尊、大巳貴命といわれ、御神体は鎌だそうです。
 『玖珂郡志』に、江戸時代応安年中、大内弘世が造営しております。また、元禄13年春、牛馬の流行病がはやったので、祈祷すると止み、享保17年に虫枯れ、雨乞いの祈祷をすると雨が降り、虫害も治ったと出ています。
 こうしたことから、五穀豊饒、農耕のお宮と考えられます。
 境内の数社は、明治の神社整理の小社といわれております。
 また、石段の傍らに、神官の高井澄男の顕彰碑があります。この人は、大谷の高井家の出で、国学者であり、当社の護持に努めました。