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日積地区史(小国・宮ヶ峠地区)

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年6月3日更新

《茶臼山》

 日積の小国にある茶臼山は、なだらかな山並みが、ひときわこんもりと盛り上がった形をしたところで、あたかも茶を挽く臼のように見えるためか茶臼山と呼ばれています。
 大昔には円墳であったといい伝えられていますが、中世の頃に山城が築かれていました。
 玖珂郡志に、「小国城山。本丸三間半ニ四間程、廻リ三段、西ニ堀切、二。城主不分明。一説ニ重藤因幡守ト云者、住居セシト申云。上ノ平ミニ城主墓トテ石畔有。此城山ニ登リ化女ニ逢バ、即病気トナル故ニ姫ケ城ト云。城山ノ南ノ原ヲ城ケ原ト云。首塚トテ小高キ所アリ。一説ニ、所ノ地下人、同所茶臼山ニ小城構住タルト也。然ルヲ海賊槇尾山ヨリ取リ掛ケ、合戦ニ及。其時ノ首塚ト云。形、今ニ有之。又、一説ニ此山ノ西ニ、トウゲン山ニ敵籠リ戦タルトテ、此山ニモ首塚アリ。」とある。
 城主に重藤因幡守が住んでいたところから、因幡ケ城ともいっていたようです。
 この城山には、化女が住んでいて、山中でこの化女に出会うと、すぐに病気にかかってしまうと恐れられ、姫ケ城ともいっていました。
 この茶臼山に城が築かれた時代は、戦国の世の中で群雄が割拠し、下克上の横行する時代でした。
 陶晴賢が大内義隆を山口に急襲し、長門の大寧寺で自害に追い込み、滅ぼしました。大内氏に関わりをもつ日積の住民は、茶臼山城を中心に自衛につとめたことでしょう。
 広島の安芸に勢力をもってきた毛利元就は、大内氏の弔い合戦だといって、弘治元年10月(1555年)陶晴賢の軍と厳島で戦い、陶晴賢を滅ぼしました。
 戦いに勝った毛利元就は、軍を周防に進めて来ました。毛利軍の水軍であった小早川隆景の兵は、由宇に上陸して、西に進行して来ました。
 海賊が襲来したと、茶臼山城の兵士は、備えを固め防ぎょにあたりました。
 茶臼山の北側に谷をはさんで、道見山に陣取った小早川軍との間に壮絶な戦いが繰り広げられました。
 茶臼山と道見山の間にある谷川に深い淵があり、地元では、丑鬼といって恐れられている所です。丑鬼とは、水中に住む魔物で、頭は獅子で体は牛の姿をしています。
 昔、稲作農民が雨乞いに牛を犠牲にして祈ったものが化けて出てくるといわれ、恐れられているものです。
 この丑鬼のいわれに気づいた茶臼山城兵は、牛の角に松明をつけて放しました。
 戦勝に意気盛んな小早川兵も、恐れおののき犠牲者を出したようです。
 この茶臼山城を中心とした弘治の役で、戦死した兵士を埋葬したといわれる首塚が、城山の南の城が原にあります。
 また、小早川軍のたて籠もった道見山にも、首塚をみることができます。

《文珠堂》

 このお堂は、『村記』(江戸初期)に、「真言宗大智寺の跡に文珠堂あり。」と出ていますが、正確の創建年代は不明です。境内に卵塔の墓も残っておるので、住職もおられたようです。
 本尊の文珠菩薩は、智恵の仏様といわれ、獅子に乗っておられるのが特徴です。
 文珠様が本尊として祀られているのは珍しく、周防の三文珠の一つといわれています。 2月25日が縁日で、かっては近郷より善男善女が多数参拝し、露店も屋台を並べ、催し物もあり賑わいました。

《瑞雲寺》

瑞雲寺 白檀

場所 ・・・ 山口県柳井市日積6550番地

 この寺の開基については、文永年間(634年)、薬師如来の来顕故事によって、大内弘貞(20代)が病気平癒を祈って建立しました。
 その後、延元3年(1336年)大内弘直が、石見国大山で、上野頼兼と戦って討ち死にしたので、甥の弘世(24代)が、義弘(25代)とはかって、弘直の菩提の寺として、七堂伽藍を建てました。その際、高名な正続国師を京より招いて開祖としました。(『柳井市史』)
 今も、国師の木像が残っております。
 本尊は、薬師如来といわれますが、秘仏で、住職の夢枕に立たれない限り、ご開張はありません。
 境内八丁といわれる大寺でありましたが、大内氏の滅亡で、建物の一部を岩国の寺の用材としたり、他の寺の末寺となって、衰退しました。
 元禄年間に、やっと再興を許可されました。
 その為か、寺壇制度より取り残され、日積郷中から麦初穂を托鉢する許しを得ております。
 境内に宝筐印塔、背後の山に、新四国霊場の石仏が並んでおります。
 寺の門前には、白檀が門かずきのように斜めに生えています。
 『玖珂郡志』に、「寺前ニ白檀古木、邪心者ニ蛇体ト見ユルヨシ。泉州境大寺ニテ、大師、風波ノ難ヲ免レンガ為ニトテ、白檀ヲ以自ラ薬師仏ヲ作玉フニ、悲願余尊ニ勝ル。」とあります。
 不心得者でなくても、大蛇がうねっているように見えて、異様である。『柳井市史』(総論編)には、学名の「イブキビャクシン」の名で出ています。

《笠地蔵・窓石》

 この地蔵さんは、旧小瀬-上関往還の、丁度峠道に建立されております。銘によると、「右、元文三年三月、前、攝引法界、左、講中」と刻されています。何かの想いが、郷中の人々に結集して、安心立命を願って、建立されたものでしょう。露座では、お気の毒だろうと、笠をかむせた、先人たちのあたたかい心情が伺えます。前に数個の盃状穴が見られます。また、窓石原の地名となったと考えられる、半窓の石が残っております。昔、山伏が首を差し込んだが、抜けなくなったので、打ち砕いた石だそうです。割れた半分の石はどうなったのでしょう。この峠から、郵便局の裏へ通じる草道は、昔の往還がそのままの形で残っている一つです。