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日積地区史(大里・中院地区)

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年6月3日更新

《三界万霊塔(尾崎原地蔵堂)》

三界万霊塔

場所 ・・・ 山口県柳井市日積3589番地

 中山方面から国道437号線を分かれて、旧国道を大里方向へ150mぐらい行くと、右手上方に雑木林が茂った尾崎山があります。その木立の中に地蔵堂があります。今は、この地区の公会堂として使われている建物です。地蔵堂のご本尊はもちろん地蔵菩薩であり、塔は丁度そのご本尊と相対する形で佇んでいます。この塔は享保2年(1717)から3年にかけて、当時の岩国領内を揺るがせた、百姓一揆の責任を追求して処刑された人達の供養塔といわれています。百姓騒動、いわゆる享保一揆の発端は、日積村農民の、苛酷な年貢取り立てに対する、岩国蔵元への直訴請願行動が由宇組・玖珂組・柳井組を巻き込んだ岩国領南部全域におよぶ大騒動です。享保2年12月、岩国川西の河原に、数百人の農民が押しかけて直訴に及びました。
 訴状の主旨は、物成り(年貢)の軽減、欠米(付加税)の免除、畑租の銀納等です。2日間に渡るやりとりの末、蔵元側も遂に折れて、農民の要求を入れた内容のものを各代官あて通知しました。ところが、今度は山代・河内組の北部の蔵入地農民や、日積を含む各地の庄屋から、改正反対の意見や書面が提出されますと、翌1月28日には、一転して改正告示を撤回して訴訟の棄却を通告しました。
 これを聞いて怒った一揆農民は、密かに再起のことを謀議していましたが、岩国の政府は弾圧に乗り出し、2月9日に日積・由宇において5人を別件逮捕しました。これで一揆農民はますます反発して、由宇の者を先頭に伊陸・祖生・日積・柳井等岩国領南部11個村総勢1,700人余りが、今度は宗藩(萩)宛の訴状を書いて花岡へ繰り出して請願し、2月19日に各自の村に引き上げました。宗藩は岩国と協議してわずかな条項を容認した裁定を伝えようとしましたが、農民側はこれを拒んで、改めて連判状を提出して、はじめて本藩領に編入の要求をしました。
 宗藩としては要求を聞き入れるわけにはいかないが、当年の年貢収納を穏便に済ますために萩より岩国に役人を差し出し蔵収納の立ち会いの提案をしました。この提案は岩国側からは内政干渉も甚だしいものと解釈されて、緊張と動揺が起こりました。これに先立ち宗藩と岩国の間では、吉川家の家格昇進問題(吉川家は正式の大名の待遇が与えられていなかった)がありました。宗藩が本気で幕府へ周旋してくれないからだという気持ちが強く、宗支藩の関係はしっくりしておりませんでした。宗藩がこの一揆を利用して領地併合の挙にでるのでは、との疑心暗鬼から吉川家中で意見対立があり内部分裂の危機もありましたが、翌4年5月ごろまでに結束をみました。
 宗藩でも、同年10月には宗藩領山代・大島などから百姓訴訟があって、一揆波及の兆候が出てきて早期解決を得策としました。まず、11月に首謀者と見られる者28名を萩に召喚して吟味がはじまりました。明けて5年1月6日萩から訴状の願いを採用されない旨を申し渡しました。岩国では、家老の当職を免じて関係代官も免職して、藩政再建に取りかかりました。その後、宗藩では一揆側の処罰についての吟味が続いて、翌6年3月1日、斬罪8人・遠島21人の判決で一件の落着をみました。
 日積村からは、大里の惣左衛門が処刑、宗行の徳兵衛以下14名が遠島に処せられました。遠島の14名は、萩沖の日本海に浮かぶ島で生涯を終えて、ついに故郷へ帰ることはありませんでした。
 さて、この一揆勃発の原因については、時の政治情勢もからんで、今ひとつ不明な点が多いが、弱い農民が犠牲になったことは疑いようがありません。
 宮の下の村中啓一氏の研究によれば、この三界万霊塔は享保騒動のほとぼりもおさまった頃、地蔵堂の堂僧 根誉源心大徳(文政9年12月10日没)が無縁墓を一括して、享保の犠牲者の霊を供養するために建立したものであろうと言われています。その堂僧の墓は、供養塔のすぐ隣に建っています。大里の惣左衛門は、大里の鍵山家の先祖の1人ではないかとも推測されています。
 地蔵堂では、今も毎年3月17日に、土地の人々によって供養が行われています。

《大帯姫八幡宮》

大帯姫八幡宮 hachimanngu4gatsu

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場所 ・・・ 山口県柳井市日積4182番地2

 八幡宮は、大里地区のほぼ中央に位置する小高い丘の上に鎮座しています。国道(437号)から社殿を見ることはできませんが、石造りの一の鳥居が旧国道のすぐそばに南面して建っていて、そこから山上へ向けて、126段の石段が急な斜面をかけ上がっています。石段を上りつめると二の鳥居があって、幅20メートル弱の広い参道が、真っすぐ東に向かって250メートルばかり伸びています。その真っ正面の三の鳥居の奥に、外側に半間幅の回廊をめぐらせた、間口4間のどっしりした形のよい拝殿が、標高540メートルの銭壷山を背景にして静寂なたたずまいを見せています。
 現在の社殿は、数百年にわたって増改築を繰り返した後の、大正9年(1924年)に現在のように整備されたものです。社域は、近在でも珍しく広大で、灯籠や狛犬等の石造物が、多く建立されてよく整備されています。
 境内の石造物については、日積公民館の刊行物、「大帯姫八幡宮境内石造物」として平成元年にまとめたものがあります。
 御祭神は、仲哀天皇・応神天皇・神巧皇后・大已貴命。
 当社の創建は明らかでありませんが、社記によると天平宝字年間(757~64年)宇佐八幡宮より勧請す、とあって相当に古い年代となっています。
 『玖珂郡志』(1802年)には「古来ヨリ旧号日積大元宮ト称シ奉リ、ソノ旧跡ヲ考ルニ、昔、御社有リシ三丁北ノ日積市トテ・・・・。ソレヨリ東ニ宮ケ峠ト云ヘル小村アリ。大内ノ時代、八幡宮ヲ当山大里ニ勧請ノ折節、行幸アリシ道故。宮ケ峠ト云ウ・・・・」とあって、日積市原あたりにあったものを、大内氏の時代に現在の大里の地に勧請したとあります。
 このことは、八幡宮に現存する10枚の棟札の一番古い応永31年(1424年)の棟札に、「欽奉再興日積八幡宮・大檀越平左衛門重秀・・・・」とあって、時の代官杉重秀が、大内氏の意向を受けて再興したことも関係があるかも知れません。ちなみにこの応永年間は、山口市の瑠璃光寺の五重塔を建立したと伝えられる、大内盛見(おおうちもりはる)の時代に当たります。
 また郡志には、「古ハ日積八幡宮ト称シ来、近代、大帯媛宮ト改称ナシ奉ル」とあります。
 このことは、前記の当社伝来の棟札のうち、年代の古いものから数えて6枚目までは「日積八幡宮」または「日積村八幡宮」となっていて、「大帯媛八幡宮」は享保7年(1722年)の棟札以降となっていることからも裏付けられます。
 なお、現存する応永31年(1424年)から明治11年(1878年)にかけて、450年間にわたる10枚の棟札は、室町、安土桃山、江戸、明治初期の各時代を通じて、一連のものとして現存する社寺はまれであるとして、福本幸夫氏の尽力によって、昭和62年に柳井市文化財に指定されています。
 さらに、郡志には「御縁起ニハ神領七百貫文トアリ、又、氏子境ノ証文ニ、安芸ハ大竹川ヲ限、沖ハ屋代島、下ハ椿峠。・・・・」とあり、「大内家御書。寛正年中、大内左京大夫政弘ヨリ日積塚原大宮司ニ当ル」との記録もあるように、大帯姫八幡宮は大内氏から吉川氏に至るまでの領主の崇敬も厚く、著名な社であったようです。昭和6年には郷社に列せられています。

 祭日 夏季例大祭 7月15日

     八朔風鎮祭 9月1日

     秋季例大祭 10月1日

 例大祭は、日積地区の各部落の回り持ちで、当屋となって奉仕しています。

 (追記)『玖珂郡志』には、岩国古物の一つとして、日積宮ケ原の「宮石」がのっています。この石には「宮」の字が刻んであって、(今は読み取ることはできません。)
      八幡宮の起源は、この場所では、との説もあります。

《大里小学校跡》

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場所 ・・・ 山口県柳井市日積4186番地1

 大帯姫八幡宮の石段を上りつめると広い参道に出ます。その参道の左側の一段低い平地が、大里小学校跡地です。今は桜の木が植えられ、周囲の山が迫って大分狭くなっていて、一寸信じられませんが、昭和30年(1955年)までは2教室と6教室・教員室・和室の平屋木造建校舎2棟が、運動状をL字型に囲んだどうどうたる小学校がありました。
 日積地区の小学校は、明治初年の学生頒布以来、大里地区と宮ケ峠地区とを行き来しましたが、明治25年になって日積尋常小学校と大里尋常小学校の2校となりました。
 その翌明治26年に新校舎がこの地に竣工しました。
 昭和2年には、高等科が設置され8学級となりました。毎日長い石段を上り下りし、お宮の森に囲まれた静かな環境の小学校でした。
 戦後の学制改革を経て昭和30年に、62年に及んだその使命を終えました。
 大里地区にはもう1カ所、学校屋敷と呼ばれている小学校の跡地があります。今は水田になっていますが、森田睦氏宅の前あたりで明治25年まで校舎がありました。
 日積地区の小学校は明治5年の学生頒布以来、お寺などを仮教場としていましたが、明治13年になって初めて、この地に日積小学校として校舎が新築されました。しかし、明治18年に小学校は宮ケ峠に移転し、大里分校となって残りました。
 やがて、明治25年には大里尋常小学校として独立しましたが、翌年前記の場所に移転して廃校になりました。

《観音堂》

 中院地区のほぼ中央にある観音堂は、往時の禅寺智音院の跡の名残といわれています。
 いま、行政面では中院と表記していますが、本来の地名は智雲院です。禅寺の智音院(または知恩院)があったことから地名となり、智雲院と変化してきたものでしょう。
 『古村記』(1668年、岩国藩最古の地誌)に、「大里ニ知恩院ト云ウ禅寺ノ跡アリ、ココニ今観音堂アリ」とあり、『享保増補村記』(1726年)には大里の小名として「…殿垣内、平原、知恩院…等」があります。
 大内氏の時代、日積村は直轄領地で、重臣の杉氏に代官職を命じています。
 室町時代の古文書『正任記』には、「筑前博多に在陣中の大内政弘へ陣中見舞いとして、日積村の知恩院(杉豊後弘重息女弘英姉)から文明10年(1478年)10月24日に300疋を進上している」とあり、当時の知恩院は、重臣の一族の息女が入山するような由緒ある寺院であり、資産もあったことが伺えます。
 その寺もいつしか衰え、『玖珂郡誌』(1802年岩国藩編)には観音堂として記載されていて、「此ノ所、禅宗恵光山智音院ト申シ伝ウ云々…本尊、木、立、作知ラズ」とありますが、その古びた気品のある木彫りのご本尊は、最近になって何物かに持ち去られ、今はありません。