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日積地区史(中山地区)

更新日:2016年6月3日更新 印刷ページ表示

 《鳩子の滝》

 鳩子の滝1 鳩子の滝2

場所 ・・・ 山口県柳井市日積8615番地

 鳩子川の渓流に3段になった滝があり、「深山の飛瀑(みやまのひばく)」といわれ、「日積八景」の一つに上げられています。昔、弘法大師が、ここで座禅を組まれたとか。足と杖の跡といわれる岩があり、その故か小さな大師堂があります。
 滝の全景は、こんもりと広葉樹におおわれていますが、この森は、珍しい「タラヨウ(多羅葉)」の原生林で有名になっております。
 「タラヨウ」は、紙の代用で、僧侶がお経を書いたり通信に利用したそうで、「多羅」とはお経の意味で、仏教木として、お寺の庭にもあります。また、葉書の語源といわれ、「郵便の木」にも選定されております。昔から、日積では「えかきしば」といわれ、子供の遊びに利用されました。
 この滝の数百メートル上流には、生きた化石、サンショウウオの生息がみられます。種類は、小形の「ブチサンショウウオ」で、柳井市内では唯一の生息地です。

《大愚和尚生誕地》

大愚和尚生誕地

場所 ・・・ 山口県柳井市日積3168番地1

 萩市の、毛利藩主の墓所のある、東光寺第15世住職で、同寺中興の大愚和尚は、日積中山の生まれです。今は、畑になっている「大段屋敷」といわれるこの地に、元文4年(1736年)に生まれました。百姓の子として生まれた彼は、長ずると志を立て、僧侶となりました。生来の俊才と懸命の努力で、各地に寺を創建し、高名な禅僧となり、ついに東光寺の住職に迎えられました。
 時の藩主、毛利重就(もうりしげたか)公との親しい交流があったようです。その在職中、大雄宝殿の修復、山門の建立等の大事業を行いました。在職16年で東光寺を出、最後は萩に帰り、文政7年(1824年)高安寺において、85才で没しました。
 大愚と関係のある、大里の村中家に遺墨の軸、中山松村家に杖と肖像の軸が伝わっております。


《十楽寺》

十楽寺

 場所 ・・・ 山口県柳井市日積3129番地

 十楽寺は、弘法大師が諸国巡礼の折り、中山の里を尋ねられ、鳩の子に導かれて、銭坪山に登られ、御来光を拝され、山上に開基された寺といわれています。本尊の阿弥陀仏は恵心僧都の作といわれ、市内では最古の藤原仏といわれ、市の文化財に指定されております。
 何時の頃か、山上よりこの地に移転され、真言宗から浄土宗になり、戒善寺の末寺となりました。
 しかし、宗派を問わず中山郷中の崇拝護持の寺となっております。
 また、この寺に伝わる十楽寺縁起は、本尊に合わせて文化財に指定されています。その縁起に、「大 ぶん師と鳩の子」「お文の身がわり」「本尊の取合騒動」等の面白い昔話が残っております。 前庭の半架の地蔵さんは、珍しい形と注目されております。また、石段に数個の盃状穴が見られます。


《正福寺の名水》

正福寺の名水1 正福寺の名水2

場所 ・・・ 山口県柳井市日積3064番地1

 玖珂郡志(1802年)に日積村三清水の一つに、正福寺の清水が記されております。おそらく、大昔からこの湧き水はあり、人の生活が始まると、貴重な飲用水として、利用されたのでしょう。それ故、この伝説も生まれました。近くに、古い五輪塔が残っている畑に、正福寺と言う寺がありました。その僧さんが、托鉢の米を取り落としたところに、突然清水が湧き出し、名水になったそうです。人々は驚き、僧さんの清水をおし頂き、大切に守って使用しました。当時は、水道や井戸はなく、流水を用水としていたからです。
 各家に井戸を掘るようになって、この水との関わりは少なくなりましたが、年中20度、日照りの夏でも水量は少しもかわらず、吹き出しております。保健所の水質検査でも、無菌・飲用に最適と折り紙をつけられました。
 正福寺は、その後火災で焼け、廃寺となりましたが、名水と自治会の名前で、何時までも残ることでしょう。

《吉村備後ノ守の五輪塔》

 水梨の好村家は、「お配り屋敷」といわれている大変古い家で、平家の末裔といわれています。そのためか、家号も「平田(へいだ)」と呼ばれています。
この屋敷に、吉村備後ノ守の墓が残っています。少し不揃いの五輪塔で、傍らに、自然石の奥方の墓もあります。備後ノ守は、萩藩の古文書、十楽寺縁起、玖珂郡志、八幡宮棟札に、吉村備後ノ守勝直の名で出ている実在の人物です。それによると、戦国時代、毛利氏に従って活躍した、日積在郷の豪族で、琴石山城の城番の一人であったようです。また、大里八幡宮や十楽寺の護持にも貢献しています。 関ヶ原戦の後、帰農して、その一族は記録から消えましたが、好村家はその末裔といわれます。
 なお「お配り屋敷」は、中山に7軒あったといわれますが、その土地の開拓の家、草わけの家の呼称と考えられます。