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日積地区史(大原地区)

更新日:2016年6月3日更新 印刷ページ表示

《大原遺跡の折れた石斧》

 昭和60年頃、大原の稲村政男さんが、庭の椿の根本から、石斧らしいものを採集された。市教育委員会の調査の結果、弥生系の石斧であった。しかも、この宅地周辺から、鏃や土器片も発見された。この地一帯は、奥迫川の扇状地で弥生人の住居跡があって、不思議ではない小高い丘である。この後、さらに石斧1個を発見されたり、土器片の中に縄文系もあることから、正式に大原遺跡と指定された。これは、日積地区では唯一、最古の人の生活が伺える地として意義がある。ただ不思議な事に、石斧はいずれも花崗岩系で、2つに折れている事である。調査員の福本幸夫先生は、使用中に折れたか、または故意に破損する事もあるといわれる。この遺跡は稲村氏の宅地が中心であるが、遠い古代の謎は、この一帯の丘に眠っていて、今後の調査に待ちたい。

※ 現物は、柳井市教育委員会へ保存

《狩野岩の絵師》

 郡志に「大原ニ名石アリ、昔狩野古法眼(元信)絵ヲ画ク」とある。狩野元信は同派の2代目で、法眼の称号を得ている。狩野派は、室町後期から江戸時代、幕府や武家の御用絵師として繁栄した。はたして、2代目元信が草深い日積に足を即したろうか。
 上田布施の峠に、狩野古法眼の筆掛けの松といわれる古木があったという。この峠より、室積湾の絶景を絵にせんとしたが、あまりの絶景に絵にならず、かたわらの、松に筆をつるして、嘆息したそうだ。
 当時は一宿一飯を求めて、諸国を渡り歩いた絵師もあったらしい。本人かあるいは同派の門弟か、この名石は何も語ってくれない。古代信仰で、大木・大岩には神が宿ると畏敬した。
 今は、近隣の人々は石神様としめ縄を張り、火伏の神祭をしている。一度神社整理で、八幡宮へ合祀したが、たびたび火災が発生したので、再度勧進したと古老はいわれる。
 かっての名石、今は、火伏の奇岩とは不思議である。

《旧往還の馬頭観音》

 大規模農道取り付け道を少し上り、左へ草道が岡の原へ通じている。これは、元小瀬ー上関往還の数少ない原形を止めている3尺道(約1m)である。この道端に2体の野仏が鎮座している。 昔、荷物運搬中の馬が倒れたので祀ったといわれる。いわゆる11面の馬頭観音である。今も、時々施餓鬼(せがき)供養の旗を見かける。吉川藩の地誌享保増補村記(1726年)によると

     日積村 石高 5,242石

     田 293町、 畑 84町

        家 686軒

     牛 467疋、 馬 146疋

農家数650軒とすると、平均1頭の牛馬を飼っていた。馬の数が多いのは、運搬手段に利用したためと思われる。その頃、牛馬は家の宝として大切にされ、病気や事故を起こすと主人の身代わりになったと悼まれた。
 元、中院奥にあった杵築(きづき)神社は、牛馬の疫病(炭疸病か)の退散を祈願して祀ったといわれ、祭日の9月1日、牛馬の行列参拝をしたと聞いている。

《大原の盃状穴》

大原盃状穴

場所 ・・・ 山口県柳井市日積4690番地1

 この奇岩は、市内数ある盃状穴で代表的なもので、市史の口絵写真にも載っている。
 それによると、遠く弥生時代に、ヨーロッパーアジア大陸ー朝鮮半島を経て、日本へ渡来した土俗信仰とある。
 韓国では「性穴」と呼ばれ、女性のもつ力が生産・豊作・魂の蘇生をもつと信じられ、穴を掘り祈願したものだが、時代が下がるとこの信仰はすたれた、とある。以前、この石は大きく地上に露出して、その前に石神様があった。祠のみ、近くの道端に移鎮された。これと同様なものが、国東半島の真木本堂にあり、灯明皿に使ったと表示されていた。 古老の話に、この盃状穴に子供達がヨモギなどをを入れ、搗いて遊んだという。大きさといい深さといい、多くの人の永年の蓄積は驚異である。隣の松重商店は、松島詩子の生家であるが、彼女も子供のころ、きっとこの石でヨモギ餅を搗いて遊んだであろう。
 日積地区には、これ以外に盃状穴が数多くあり、その場所は日積地区史に掲載されています。

《積善橋の碑》

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場所 ・・・ 山口県柳井市日積4793番地2

 昭和11年、幾度もの水害に耐えた積善橋が再建された。地元では、由緒ある橋を記念して、4本の橋柱を保存している。それまでは、大きな土橋で、「大原大橋」といい、大雨になると、大原の登校中の学童は、父兄が迎えに来て、無条件で早引けしていた。
 柱の銘にあるごとく、昭和11年、永久橋1号として完工し、盛大な渡り初めが行われ、積善橋と命名された。 時の校長は、善行を積むよう、全校児童に訓話された。
 積善とは、日積に論語の「積善の家に余慶あり」の古語を掛けたものであろうか。
 この橋の少し下流のポンプ小屋の側に、積善橋と刻まれた石柱があり、右面に安政4年の建立とある。  
 古老は、昔、ここに飛橋(とんばし)があったという。ここに始めて、土橋か板橋が架けられた記念であろう。すると、積善橋の初見は、ここまで繰り上がる。飛橋は、最近まで残っていたが、河川改修で姿を消した。
 地元の空田勇氏は、この辺の地名の「積善」から、来たのではといわれる。しかし、小名や小字の地名記録にその名の地名は見えない。謎は深まるばかりである。

《大原の一里塚》

 享保増補村記(1726年)に
 一里塚大原丸山安芸境小瀬より7里。上ノ関より8里。
 一里塚カジヤ原安芸境小瀬より8里。上ノ関より7里。
その附録の日積村の絵図に、往還と一里塚が図示されている。
 それによると、大原の一里塚は、今の奥村商店の位置である。もちろん、円い塚も石柱も行方不明である。
 そもそも、吉川藩の小瀬ー上関往還が、由宇から海岸を通らず、日積に通じている謎は不思議である。
 その一つは、神東海岸では山が急に海に落ちて、難工事であったのではなかろうか。 また日積は、藩の穀倉の村で、重要であったためとも考えられる。
 この付近に宿屋があった話を思い出し、聞き取り調査をした。確かに大正年間、この付近に2、3軒の旅籠屋や居酒屋があったそうだ。
 当然大正以前、藩制時代にあっても不思議ではないが記録に見えない。
 昭和年代になると、薬屋が泊まる程度で、ついに姿を消したという。

《稔薮の多賀社》

稔藪の多賀社

場所 ・・・ 山口県柳井市日積5341番地

 この宮の記録は、玖珂郡志(1802年)に始めて「大原末社多賀社」と出ている。次に、明治13年の神社明細帳に、祭神伊弉諾(いざなぎ)尊、文禄年中(1592~95年)近江国多賀神社より勧請するとある。しかし、享保(1712年)の村記や絵図には記載されていないので、創建年代は謎である。 多賀社は各地にあるが、寿命の神といわれ、大原郷中では、祭り当日には祭り客を招待するほどにぎわった。末社としては、立派な神殿や石造物の数から、多くの崇敬人の強い動機や合意があって創建されたものであろうが、祭神から考えて、疫病(赤痢または天然痘)の流行ではなかろうか。明治40年頃の神社整理に八幡宮へ合祀されなかったのは、当時の各区に1社のみ八幡宮の御旅所として残されたためであろう。拝殿には、狂歌や和歌の奉納額が残っているが、くわしくは公民館発行の「多賀神社のしらべ」を参照されたい。また、境内の力石や、社叢のかえでの大木は珍しい。