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日積地区史(若杉・割石地区)

更新日:2016年6月3日更新 印刷ページ表示

《慶徳庵と六面地蔵菩薩》

慶徳庵 六面地蔵

場所 ・・・ 山口県柳井市日積4629番地1

 割石の集落を少し上がった所に、慶徳庵のお堂があります。
 慶徳庵には、お大師様(弘法大師空海)と観音様が祀ってあります。昔はお坊様がおられたようで、境内には、お坊様独特のお墓が一基残っています。今では無人で、地区(岡じょう)の人々によって毎 年「施餓鬼(せがき)」が行われ、大切に管理されています。
 この慶徳庵の境内には、六つのお顔を持つ一体の石仏(六面地蔵菩薩)祀られています。法衣を着て蓮座の上に立って合唱している姿の石仏で、舟型の光背には、向かって右側に「延命六面地蔵尊為一千部讀追傳也」と、左側には「源藝州厳島住天文十辛丑三月廿一日定」と彫り込まれています。
 この地割石(破石)は天文10年2月10日に、時の山口を治めていた大内義隆が厳島様に灯明料地として寄進したので、厳島様の神領地なっていました。
 神領地となったことで、領地の安泰と人々の延命を祈願して一千部経を読誦し、六道の六地蔵を意識して、六つの顔を彫り込んだ石仏が、天文10年3月21日に造られたものと思われる。
 この六面地蔵について、地元では次のような話が語り継がれています。
 「昔、柳井から山越しにやって来た六人の侍が厳島の役人と名乗って、厳しい年貢の取り立てや無理難題の接待など押し付けるので、困り果てた人々は、この六人を撲殺してしまいました。地の人々は、殺した六人のたたりを恐れ、石仏に六面を刻んで霊を弔った」ということです。

 ※ 柳井市文化財指定 昭和50年9月5日

《割石の大岩》

 日積の西端に位置する集落、割石地区の地名のもとは、県道柳井由宇線の道沿いにある奇岩(割石殿)が始まりのようです。
 享保11年(1726)当時の吉川藩は「享保増補村記」の作成を命じました。それによると、『割り石殿、割石川端。由来、分明ならず。古より割石殿と称する故に、此辺、所の名とせり。』とあります。
 若杉川の上流が県道と接近している所の狭間に、大きな岩とお堂「もり様」があります。お堂のすぐ後ろにある大岩の上に小さな祠があり、この岩が「割石殿」であって前の「もり様」は岩と関係のあるお堂と思われます。
 お堂の境内に、柿の木によく似た珍しい大木があります。「チシャノキ」といわれる樹木で、以前は2本植えられていたそうだが、1本は台風で倒れてしまいました。

《新明宮》

 県道柳井由宇線のバス停新宮から、少し山に登った森の中に鎮座する社が、若杉新明宮です。地元では、若杉社・新宮・お伊勢様ともいって崇拝しているお宮です。
 享和2年(1802)に広瀬喜運が著述した『玖珂郡志』によると、昔(慶長年中・1596~1614)神沖長者が大里に高神社(伊勢内宮・祭神天照皇太御神)と、若杉社(伊勢外宮・祭神豊受皇太御神・御神体御鏡)を勧請されました。
 若杉新明宮は松や桧の生い茂った山中にあります。この山の草木枝葉を取ると祟りがあるということで、人々は恐れて伐ろうともしなかったそうです。

《若杉の大杉》

 『玖珂郡志』によると、「木 若杉・若杉村ニアリ。往古、文禄年中、朝鮮陣ノ時、船ニ作リタルヨシ。今ノ杉ハ其後植継タルモノ也。末延 木ノ末とどきタヘシ云」とあります。 
 豊臣秀吉が朝鮮に出兵した時、渡海するのに必要な船を造るため切り倒されました。その跡に杉のなえ「若杉」を植え、すくすくと伸びて大木となったが、第二次世界大戦の後その姿を消しました。
 植え継がれた「わかすぎ」が、所の地名になったという説もあります。

《若杉不動院の丘》

若杉不動院の丘

場所 ・・・ 山口県柳井市日積7641番地

 県道柳井由宇線改修にともない、若杉地区にある真言宗醍醐寺派寺院の不動院の境内と、その周辺が整備集合されて、あたかも古城跡を思わせるような丘があります。
 その丘には、不動院と寺院関連の八十八ケ所の地蔵様が整理され一ケ所に立ち並んでいます。丘の上には、柿本人麻呂を祀った人麻呂様の祠があり、その横にはいずも様、多賀社が祀られています。一段下がった所には、お乳の神様として人々の信仰を集めた子安観音様が安置されて、丘全体が信仰の場であり霊場となっています。
 不動院は、『寺社記』に醍醐寺派岩国金正院末寺で「本尊不動明王長七寸、脇立二童子 長寸 開基三学 延宝八年寂」と記録があるが、火災にあって鐘楼を残すだけとなったが、現在は地域の人々によってお堂が建てられ管理されています。
 この不動院は、京都醍醐寺百一世座主、真言宗醍醐寺派第九世管長、大本山三宝院門跡に就任された、岡田宥秀大僧正の生誕された寺院であって、醍醐寺とはとくに深い関係のある寺です。現在も、毎年8月には総本山醍醐寺や、彦根の長寿院から僧侶の方々が来られて法要を営み、「護摩をたく」行事が行われて、多くの参拝者を集めています。
 岡田宥秀大僧正は書をよくされ、晩年帰郷されたとき日積小学校にも立ち寄られ、師の書が残されています。  [足知分識]

《日積市原》

シャシャンボ ズイズイの大木

 観光ぶどう園のぶどう棚の広がる台地日積市原は、昔には近郷を結ぶ交通の要所であった。旧街道小瀬・上関往還と宮ケ峠から伊陸へ通じる道が交差する所であって、旅人をねぎらう茶屋もあったそうで、茶屋跡といわれる所もあります。
 日積市原の台地は、河岸段丘の形成によるものといわれ、要害の地で、中世の大内氏時代には代官も居住していたようで、高井氏宅付近が北方代官屋敷跡なのか、中世の焼き物のかけらや朝鮮や中国の焼き物、山口の大内館と同じ古瓦などが見つかっています。
 この台地に、若杉から上がった道わきに、珍しい墓石がひっそりと立っており、六部の墓といわれています。六部とは六十六部のことで、諸国を巡礼し書写した法華経を、全国六十六ケ所の霊場に一部ずつ納めて行脚する僧のことで、この僧がここで亡くなったのではないかと思われます。旅人が憩うた茶屋跡の所に、ズイズイ(学名シャシャンボ)の大木が立っています。胴回り2メートル9センチもあり、西日本では最も大きいといわれています。
 また、この台地に日づめ(月末)の市がたっていたので、この台地を日積市原と呼ぶようになり、日積の地名になったという説もあります。